体調を崩し古典語の授業に出られなかった間、クラスメートが配布されたプリントや音声データをラインで送ってくれていた。親切な人だと感謝しお礼も伝えた。クラスに参加できるようになった今、ご飯でもお礼代わりにごちそうしなくてはなとも思う。
ただ、印刷環境がないので、やはり印刷されたプリントがほしい。授業の最後にそう先生に伝えたが、彼にとっては面白くなかったかもしれない。ラインで送っているのだから、わざわざプリントをもらわなくても、と彼が思ったのではないかと思ったのだ。私が印刷環境を持っていないことは彼は知るよしもないしね。先生にお願いするにしても、彼のいないところですべきだったかなとも反省した。
考えてみれば、今回のことだけでなく、人から親切にされ、そういう気持ちをありがたく思い、お礼もしたいと思っていながら、まったく逆の、少なくともそうした親切を意に介さないかのように振る舞ってしまうことがよくある。親切にされると窮屈に思うようでもある。偏屈で異常な思考といえよう。
喉元すぎれば熱さ忘れるで、体調が悪いときは人の優しさが身に染みるが、快復してみるとそんなことはすっかり忘れてしまうようだ。これからは困っている人がいたら親切に手助けしてあげようと思っていたが、今は人とみると競争相手や敵のようにみてしまう自分がいる。
精神を病んでいるからか、もともと生まれ持ったものなのかはわからない。おそらく両方が関係しているのだろう。それを認識し、自分を責めているぶん、まだ真の自己中心的な人間ではないとは思うが、他人からみればそんな心の葛藤などわかるわけもなく、単に失礼なやつとしか映らないだろう。
なぜ人の親切をありがたく思い、かつそれに応える、あるいは礼をする気持ちがありながら、実行しないのはどういう心理状態なのだろうか。自分でも言語化しにくい。そもそも、人の好意を受け取るのも苦手であり、そうした好意を示された際には、気が付かないフリをすることもある。重症である。
そんな自分を変えたい気持ちもありつつ、変えるのは不可能だという諦めもある。はっきり言えるのは、こういう性格で生きていくのは非常にしんどいうということだ。むしろ不義理な人間ですがご勘弁くだせえと開き直って生きるべきなのかもしれない。うんうん煩悶しているだけでは誰の役にも立たないし、コミュニティーに属しているなら場の空気を悪くするだけだろう。かといってそこまで大胆にもなれないし、苦悩は続くね。