語学学校でラテン語を習い始めて、もう数年が経つ。最初の1、2年は、自分が何をやっているのかすら理解できていなかった。ただ、新しい能力を獲得したい一心で続けてきた。課題もやりはするが、自分がやっていることが何なのかわかっていなかったから苦痛だったし、当然クラスでも恥をかくので、今思えば、よく続けて来られたなと思う。マゾヒストなのかとも疑うくらいだ。
わけがわからなかったのは、単語を一つ一つ辞書で調べるときに、意味しか考えていなかったからだ。その語が文中でどのように機能しているかを考えていなかった。一応、変化表、活用表をみて、格は何だとか、時制はどうだとか調べるが、とくに名詞・形容詞は選択肢が多いケースが多いので、混乱してしまう。ついつい、文の前から順に、意味を拾ってなんとなく文意を把握しようとしてしまうが、それが罠なのだ。先生は口酸っぱく、活用している動詞が中心で、主語、目的語、補語は何かをとらえなければならないと言っていたが、そういう構造的な文章のとらえかたができない間は、単語の意味ばかりに引っ張られて、困惑して途方に暮れてしまうのだ。要は、文成分を意識しないと読めないということである。その転換が、初心者にとっては大きな壁となって立ちはだかる。
もちろん、構造的にとらえることができるようになっても、文法のルールはたくさんあるから、難しいことに変わりはないんだけども。今はカエサルの「ガリア戦記」を時間があるときにコツコツ訳しながら読書しているが、それほど難しい文法ではない。文体が簡潔で、動詞も現在形が今のところ大半を占めている。初学者に向いたテキストとの評判は、そのとおりだと思う。しかし、それにしてもいちいちラテン語をノートに書き写して、そこに辞書で調べた意味を書き加えつつ、名詞や形容詞の格、数、性、動詞の時制、法などをみながら、読んでいくから、時間がかかってしかたない。一つの文を訳すのに1時間かかることもざらである。これでは1冊の本を読み通すのに何年かかるかわからない。続けていくうちにある程度スピードは上がってくるだろうけども、一生のうちに何冊のラテン語の本が読めるだろうか。
そんなことを考えながら、今週はいまのところ毎晩、ラテン語を読んでいる。もうすっかり習慣になってしまっている。あんなに辛かったラテン語が、いまは趣味になっている。それもこれも、わけがわからないなりに愚直にラテン語に向き合い格闘してきた過程で、ラテン語をやるのが習慣になったからだ。しばらくラテン語をやらないと、大切なものを忘れたという感覚に陥るくらいである。