石の上にも三年とか、継続は力なりとか、努力を続けることの重要性は巷間に浸透している。個人的にも、膨大な練習量によって生み出される特殊な力が好きである。音楽家は毎日十時間練習することでとてつもない技量を発揮するとか。
継続の目的は自己成長であり、その先にある成功ということになるだろう。しかし悲しいことに、長く続けていても、成長がなく、したがって成功もないという事例は多い。というより、成功例は稀で、成功しない例が圧倒的に多いのかもしれない。
母はピアノが好きで何十年も教室に通っているが、聴いていて上手だなと思ったことはないし、上達した跡もみられなかった。これは実家で一緒に暮らしていた頃の話で、それからずいぶん時間が経っているが、いまは当時より上達したかというと、そんなことはなく、もう高齢なこともあり、むしろ下手になっているのではないかと思う。
会社の先輩でも、ベテランであるにも関わらず、素人みたいな仕事をする人は多い。これなんかも、ただ長くやっているだけでは成長できない事例である。
考えてみると、成功者は一握りという言葉があるが、努力をいくらしたところで、成功できる確率は非常に少ないということなのだろう。だから、今はぱっとしなくても、努力を続けていれば、いつか花開く時が来るといいう励ましは、空虚なものかもしれない。実際、四半世紀にわたって努力を続けてきた自分の文章も、成長しているのか正直よくわからないし、成功はもちろんしていない。
だからといって、努力を打ち切ることもできない。多くの人は成功する前にやめてしまうという言葉もある。成功まで、あともう一歩のところにいるにもかかわらず、直前で諦めてしまう可能性もあるのだ。それは惜しいから、とりあえず続けてみようと思って、今日も書いている。しかし、四半世紀も努力を続けてきて何も成功していないのだから、いい加減、ここには鉱脈がないと認めるべきのような気もする。ここまで来たらもう意地でも成功してやるという熱い思いが湧いてくるわけでもなく、ただ惰性で、恨み言をつぶやきながら、今日も書いていくだけである。