基本的に読書は英語で読むようにしている。最近はフランス語のリーディングも強化しているが、それは語学学習が目的であり、小説を読んで面白がりはするが、知りたい情報にアクセスするという意味では英語が中心になる。
だから基本的に英語で書かれた本、それは英語を使う作者の書いたものだったり、他の言語で書かれたものを英訳にしたものである。これをもう10年以上続けていて、日本語の本を読むことは皆無といっていい。村上春樹の小説も途中から英訳本が出るのを待ってから読むようになった。昨日から「嫌われる勇気」という日本で有名な本を読み始めたが、やはり英訳本をキンドルで探し、ダウンロードして読み始めた。
若い頃は外国文学の邦訳をよく読んでいたが、今は真逆のことをしている。今は少なくとも得る情報としては英語がメインになっている。もちろん日本のネットニュースや動画もよくみるが、オンライン英会話をしているので、会話のボリュームとしては英語のほうが日本語より多いくらいである。
だからといって、日本語と同じように英語を使えるレベルにはいたっていない。話すときも相手とコミュニケーションはできても、文法的には欠陥が多いし構文力もない。だから単語を適当に並べ、それっぽい構造にして話しているだけである。頭のなかではもっとマシな文章ができているが、いざ口をついて出てくるのはカタコト英語になる。
英語力アップ、異なる視点の獲得を目的に英語学習を続けてきた。それによって日本語で書く文章が少しでも向上すればとの思いからだ。いや、フランス語や古典語はそうだったかもしれないが、英語はやはりキャリアアップを期待して始めたのだったかもしれない。具体的な未来を描いていたわけではなく、英語くらいできたほうが将来役に立つかもなくらいの感覚だったのだろう。
とにかく、たくさん文章を書き、外国語を学習して文章を構造から理解するとともに視点を複線化することで、少しでも筆力を向上できればと努めてきた。英語、あるいは外国語をやっていなかったら、もっと違う文章を書くようになっていたのだろうか。それとも、これから外国語学習をした成果が文章に発現してくるのだろうか。悩みつつ、ほかに成長するのに適した方法も見当たらないようなので、いまやっていることを継続していくだけである。