元気になってくると、ついその元気をすべて運動などで消費しようとする傾向がある。元気の定義は人それぞれだろうが、私の場合は身体が動くというものであった。疲れていようが身体が動くのであれば運動し、疲弊困憊しないと気がすまなかった。いまから考えると異常である。今回のパニック的な症状の発現も、こうした強迫観念が根本にありそうだ。
だから、いまは朝の起床時に疲労感があれば散歩を除く運動はしないようにしている。疲労感が抜けるまで何日かかっても休む。運動習慣がある身にとっては回復するまではなんとも焦れる日々であるが、そのマインドを変えない限り、また同じことを繰り返す可能性があるから、徹底的に自分を再教育する必要がある。
しかしどうして疲れに疲れを上塗りしてばかりいたのだろうか。それは運動して身体を強くすることによって、コミュニティーにおける自己の存在感を高めたい、あるいは女性を惹き付ける魅力を高めたいという願望が隠れていたのだと思う。それは裏をかえせば、そういう力が自分に欠けていたからである。
だが、疲れている状態というのは、生物に置き換えると危機的状況である。外敵に襲われたとしても疲弊していれば捕獲されるリスクが高まる。群れのメスも、自身を守ってくれる能力がないと判断し、そっぽを向くであろう。逆説的ではあるが、強くなるためには疲れている状態をなるべくつくらないようにトレーニングをしていく戦略が必要になるということだ。
考えてみれば、10代の頃から不定愁訴がつきまとっていた。気分良く過ごせた日が自分の人生のなかで何日あったか。少なくと物心がついて以来、そんな日は存在しなかったような気がする。学生時代は部活をしていたし、部活を引退してからも筋トレなどの自己鍛錬が日常だった。疲れているのに疲れを上乗せしていくから、気分良く過ごすなんてこととは無縁だった。
今回体調を崩したことで、この長年の歪んだ認知を改善できる可能性に期待している。疲労感がなく、楽に日々を過ごせるようになったら、何にも代えがたい幸福になる。だから自分に疲労のない状態がどんなものであるかを、休みを重ねながら教え、しっかりと覚えさせていきたいと思う。