結局、夢の真の姿は金であった

かなり若い頃から、社会不適合者だと思っていた。人付き合いが、うまくできない。表面上はうまく取り繕えても、心は摩耗してしまう。人の都合に合わせないといけないと、心身ともにへとへとになる。だから、物書きになって、人と接することなしに、生きていけたらいいと思っていた。

残念なことに才能がないので、書くことで生きていくことはできていない。そういう仕事を生業とする職業には就いているが、独立した書き手ではない。雇われ人である以上、人間関係のストレスがすごく、実際、今年は体調を崩したし、いまも日々、辞めたい辞めたいとばかり考えて過ごしている。そして実際、辞めざるを得ない時が刻一刻と迫っているようである。こうなることはずっと前からわかっていたのだから、何かしら手立てを打っておくべきだったのに、実際には、いま退職したら途方に暮れてしまう。

まったく努力をしなかったわけではない。毎日書く習慣があるし、少しでも筆力を向上させようと、外国語学習にも取り組んできた。それでも、雇われ人の範疇を超えるほどの実力は、つけられなかった。しかし、なぜ独立した物書きになりたいかと思ったかというと、上述のとおり厭世、厭人的な考えがあるからであるが、日々読み書きをしながら悠々自適に暮らしたいという夢の本質はなにかといえば、経済的自由である。恥ずかしながら、最近投資関連の情報を調べている過程で、そのことに思い当たった。

もちろん、自分の書いたものが売れに売れ、莫大な収入が入ってくるという夢を描いていた。しかし四半世紀も努力をしてきて、給料以外、1円も文章で稼いだことがないという事実は、残酷だが、紛れもない、見込みのない証明である。いまでも諦めきれないから読み書きと語学に精を出しているけれど、まあ、経済的な成功には結びつかないだろう。自分の筆力の成長の跡がみられるのは、何よりの喜びではあるが、それは自分のなかだけの営みでも問題なく、承認欲求は存在しない。少なくとも、自分ではそう思っている。

毎日、好きなだけ読み書きをして暮らせたら、というのが夢である。その実現には、金がいる。FIRE(経済的自由・早期リタイア)が流行っているが、その実現にも、多額の金が必要であるが、それもない。結局のところ、無策過ぎた。徒手空拳で努力していれば道は拓けると信じてやってきたが、もっと早く、本質を見極めるべきだった。後悔しても遅いという、苦い思いが募っている。

40代。語学(英仏)をマイペースで勉強(主に読書)していて、たまにウクレレを弾く。バーピーなど自宅でできる自重トレを習慣化している。

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