米がいつの間にかなくなった

テレワークがほとんどなので、自炊をすることも多い。昼はパスタをつくることが多いので、イオン系のスーパーの安いパスタを買い込んでいる。一方、米はいつも5kgを買っているのだが、あと1合くらいになってしまった。だからスーパーに行って買おうとしたら、米が売っていない。

1kgとか、ブランド米の高いのは売っているが、5kgで3千円くらいの庶民向けの価格帯の米の棚は、がらんとしていた。昨年の不作や需要減を背景とする減反などが影響しているらしい。米が主食の日本において、何ということだろう。トマトもりんごも異様に高い。農業を軽視してきたツケが回ってきているのだろうか。

日本などの先進国にいると忘れがちになるが、食料というものは、なくてはならないものである。農業や畜産業が廃れれば、食料は不足する。その当たり前の真実に、普段の生活で思いをいたすことは、ほとんどない。だが、日本人の主食である米が手に入りにくくなるということは、死活問題である。売っているけど高い、というならまだ救いがあるが、米がなくなれば、米騒動が起こるかもしれないというような、深刻なレベルの話のはずである。だが、どちらかというと、いまの日本人は食べるものがなくなるという危機感というよりも、家計の心配をしているような気がする。

異常気象は、環境破壊が原因なのだとしたら、天候不順による米の不作も、自業自得なのかもしれない。しかし、歴史をみれば、不作による飢饉などはたびたび起こっていたわけだ。農業技術が進歩した現代でも、天候には勝てないということなのだろう。しかし、環境破壊は、食い止められるものだろうか。少なくとも、短期間で悪い影響をすべて排除することはできないだろう。ということは、米をはじめ、農作物の不作は、今後も続いていくことにならないか。

何十年も前、同じように米が不足し、タイ米を輸入していた時期があったと記憶している。タイ米は、カレーや、スパイス料理とは合う。細長くて、パサパサしている。しかし、日本の米とは、やはり違う。その日本の米も、いつか食べられなくなってしまうのだろうか。子どもの頃、ご飯を食べる前に、親から農家さんに感謝しましょう、と言われたものだ。偽善ぶっているようにも感じたものだが、今から考えると、本当に感謝しなければいけないのだなと反省する。

経済発展のために、成長産業に投資が必要なのは、本当だろう。だが、人間は生きている。生き物である以上、食わねばならない。そして食べ物は、どこからか、勝手にテーブルに提供されるわけではない。生産者、流通業者が必ず必要だ。食料というものの世の中の位置づけは、その価値に見合ったものになっているのだろうか。

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