木々が黄色に、紅色に、色づいている。だが、中途半端な、緑色と黄色の間の樹々も多いようだ。つい先週に京都を訪れた際もタクシー運転手とその話になり、一気に気温が冷えるときれいに紅葉するが、11月や12月になっても暖かい日が戻ってくるような現今の状況では、紅葉のための温度変化が十分でないらしい。それでも、きれいに色づいている木々ももちろんあって、黄色い落ち葉を踏みしめながら歩くことは楽しい。
ただ、コンクリートの上の落ち葉を、ディーゼルエンジンのバキュームで騒々しく吸い込むのは興ざめである。コンクリートの上の落ち葉を放置していると、何か問題が発生するから掃除しているのだろうか。ただの美観の問題ならば、放っておけばいいのにと思う。このバキュームは騒々しくて嫌いである。ホウキよりは清掃の効率がいいのかもしれないが、公園などでやられると、せっかくのリラックス気分が台無しになる。入場料を取る庭園などでも、このバキュームを盛大に使用しているが、静謐であるべきはずの空間が破壊されているのが悲しい。便利さが情緒や機微を駆逐しているのだ。
しかし、色づいた葉が木々の間から地面にはらはらと落葉している光景が胸をうつのはなぜなのだろう。言葉では説明できない、本能的なものがある。人は自然と一体なのだ。だが、今後もっと温暖化が進み、秋冬を迎えても木々は色づかずに葉が落ちるだけ、ということになるのだろうか。
私が子どもの頃は、関東圏でも雪が降り、雪だるまを作れば何週間も形を保っていたし、雪合戦も当たり前にやっていた。かまくらというのも作っていたな。最近、都内で積雪することは、ほとんどない。と思っていたが、都内在住の知人が今も降っていると言っていたから、私の思い違いかもしれない。ただ、この数十年で、暖冬が進んでいるのは確かである。それがメディアの言うように温暖化ガスの影響なのかどうかは、正直わからない。地球がそういうタイミングを迎えているだけなのかもしれないし。
それにしても、木々は秋冬には紅葉し落葉し、春になって再び芽が出て新緑が輝くというサイクルを、延々と続けているのだ。人も、動物も、昆虫も、生きとし生けるものは、みなそうである。その当たり前の事実に、ただ、驚愕する。