どの世界でも、一流の人は、膨大な努力をしている。私も物書きとしていつか生計を立てられるようになりたいと思い、自分なりに書く練習を続けてきた。だが、成果はなかなか出ない。自分の力量が向上しているという実感もあまりない。その現実をうらむこともあるが、冷静に考えれば、一日にたった数十分の努力だけで、高望みしすぎなのだと気づく。
スポーツ選手にしろ音楽家にしろ、一流は、一日数十分の練習で終わることはない。ウォーミングアップにしかならない。音楽家は、一日に10時間練習することもあると聞く。そこで思い出されるのが、母である。
母は長年、ピアノを練習している。いまでもピアノ教室に通っており、実家には発表会で演奏した写真が飾られている。その母の練習量は、1回につき30分くらいだと思う。1回と書いたのは、毎日練習しているかどうか怪しいからである。
継続は力なりという。母のピアノ歴はおそらく40年近くになるのではないかと思う。40年も同じことをしていれば、それなりの技量になるはずである。しかし、最近こそ知らないが、同居していた20年前くらいには、母がピアノの曲を1度もとちらずに弾いたのを聞いた試しがない。あるパートではうまく弾けても、次のパートに行くときにはいったん手が止まる。楽譜をめくってくれる人がいないせいもあるだろうが、そうでなくても、よく間違える。つまり何が言いたいかというと、確かに長く続けることは、一流になるために必要ではあるが、それがすべてではないということだ。才能のことは置いておいても、努力の量が少なければ、長く続けても成果は出ない。母は、そのいい事例だと思うのだ。
我が身を振り返ると、母と同じ状況にあるようだ。なるべく毎日書くようにしているが、時間にしてせいぜい30分である。物書きを志してから約四半世紀が経つが、母と同じように、アマチュアの域を出ていない。なぜなら、アマチュアの練習量しかこなしていないからである。
それでも、ここまで続けてきて、諦めるのは勿体ないという思いもある。資産と呼べるものは何もないが、財を生み出す可能性があるのは、書く習慣だけである。だから、今日もほそぼそと、ノートに汚い字で文章を書く。なぜ物書きになれないのだという嘆きを、書きつけるのだ。