年を取って、認知症になって、わけがわからない行動をするようになる、そういう事例が、今後、社会の高齢化が進むのにともなって、増えていく。最近も、おすぎとピーコに関するニュースを目にしたが、認知症になると、当の本人は人生を、自分自身を、どう感じているのかと疑問に感じる。苦しいのだろうか。悲しいのだろうか。そういう判断が出来ないほどに、わけがわからなくなっているのだろうか。だとしたら、むしろ幸福である。周りにとっては迷惑かもしれないが。
生物である以上、いつかは死んでしまうわけで、その去り方は千差万別である。眠るように死ねたら一番いいが、大概は苦痛をともなって、死んでいく。そう考えると、生命を受けてこの世に誕生したことが、まるでババを引いたように思えてこなくもない。人びとをみていると、いつか死ぬということを誰も憂いていないように思える。いつか来る死に怯えてばかりいるのは馬鹿らしいとは思いつつ、その揺るがざる事実に、どうしても気持ちが暗くなる。
だから、深く考えずに、生の楽しみを享受することに一所懸命になればいいのだろう。生には、辛く悲しい面があるのと同時に、素晴らしく楽しい面も同時に存在するのだから、明るい方をみるようにしたいものだ。悪いところばかりみようとするのは、メンタル疾患の特徴でもあるらしい。ある精神科医が動画で言っていたが、メンタル疾患を病んでから治療に励み、90%くらい回復しても、残りの治っていない10%の部分ばかりみて、治らない、治らないと嘆く患者は多いそうだ。90%も改善しているのに。このように、視野が狭くならないようにしたい。でも、どうにか、痛みや苦しみを感じずに、安らかに旅立ちたいものである。科学技術が発展して、そういう願いを叶えてくる社会が出現してくれればいいのだが。
だが、生命の本質は、種の保存であって、個体の幸福ではない。人間だけが、その自然の摂理から逸脱したことを考え、実行しようとする。不思議な存在である。