ラテン語との格闘〜苦難の末に〜

音楽に関するキケローのラテン語の文章を、構造をきちんと把握して読めていると先生に褒められた。ラテン語の学習を開始してから、かれこれ3、4年経ったと思うが、こんなことは初めてである。達成感が密かに胸の中に広がっていった。

もともと、文章力を高めるための方策としてラテン語学習を始めた。外国語学習が文章力向上につながるという根本的な考えがあり、当時すでに英語に加えフランス語の勉強も始めていた。フランス語とほぼ同時期に始めたのだったかな。とにかく当時(今もだが)は自分の文章力を高めるのに必死だった。それは裏を返せば自分の文章力が頭打ちになっているという自覚があったからで、日々日本語で文章を書いているだけでは、他の書き手と差別化できない、なにか普通の人がやらないことをやりたいという思いでラテン語を選んだのかもしれない。

ただ、最初は苦痛の連続だった。文法クラスはまったく理解しないままただ授業に参加しているだけだった。講読のクラスに移ってからそのつけが回ってくる。単語の意味を辞書で引いたところでラテン語は読めない。すべての語に文中における役割があるからだ。文の中心に来る動詞はどれかを探し、その語尾によって時制や法だけでなく、単数か複数かを見極め、それに合致する名詞、それに関わる形容詞、さらには補語を、意味ではなく形態から読み解かなければならない。この感覚が最初のうちはさっぱりわからなくて、辞書で意味を一生懸命調べ、名詞であれば一応男性名詞か女性名詞か中性名詞か、あるいは単数か複数か、さらには主語になる主格か目的語になる対格かなどをチェックしたりするが、それでもさっぱり読めるようにならなかった。

講読のクラスでは、先生に名指しされて原文を訳していくのだが、当時のクラスメートは優秀な人が多く、すらすらと訳していく。私の番はもう地獄で、訳しながら途方に暮れても、先生も手助けしてくれず、ただ沈黙だけが続くのだ。舌打ちも聞こえてくる。汗はダラダラだ。そんなことが2年くらい続いた。それでも宿題をし、クラスに休まず参加し続けた。なぜそんなことができたのか、自分でもよくわからない。ただただ苦痛だったから。自分はマゾなのだと冗談のように思うしかなかったが、それくらいしんどい時期だった。

しかし、いつしか読み方がわかってきた。それは理解したいという強い意思があったからだとは思う。最悪だと思える時期が長く続いても、とりあえず努力を積み重ねていけば成長はできる。そのいい事例だと思う。途中でやめていたら、今のレベルには到達できなかった。もちろん、今でも原文を訳すのは時間も労力もとてつもなくかかるし、それだけやっても完璧に訳せるようにはなかなかならない。それでも、ひとつ人生において大きなことを成し遂げたという達成感がある。実際に文章力の向上にどれだけ寄与しているのかはわからないが、やってよかったなと思う。

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